どこまで行っても自分は自分② 〈第165号〉
本日は、胸郭出口症候群に対する指圧。腸脛靭帯炎に対する鍼治療に関する実技。
その後は施術。最近、太ももの外側に疲労が蓄積している方が多いので、腸脛靭帯炎に対する講義、実技は大変参考になりました。
〈第165号〉どこまで行っても自分は自分②
水戸での生活も3年目。私は大学3年生になっていた。
当時は、現在と違い、「就職氷河期」と言われ、どこか緊張が抜けない状態にあった。
私も、大して良いことがないと感じていた分、
『せめて就職くらいは成功してやる』
と大学1年生の時から、就職セミナーや上級生向けの座談会などに参加して準備をしていた。
この時は、ローソンではなく、ファミリーレストランの調理のバイトを朝6時からやって、学校に行く生活だった。
家庭教師は私の天職となり、依頼が増えていった。
プレシャーの多い、高校受験、私立中学受験を好んで担当した。
その分、喜びも人一倍だった。
遊びたい盛りに、受験に備え勉強する子供達の姿は眩しかった。
元気をもらっていたのはいつでも自分だった。
この頃、注目し始めたのは、「PDT(フォトフェイシャルダイナミック)」というニキビの光線療法だった。
ニキビ、脂漏性皮膚炎の原因が皮脂分泌過剰だとしたら、皮脂腺の働きを抑えれば良い、という論理は納得がいった。
それに関わる本も読んだが、どれも説得力があり、
『これに賭けてみよう』
と思い、精力的にバイトをしていた。
そして、大学3年の10月、就職活動が始まった。
スタートは、東京ビッグサイトで開かれた合同企業セミナー。
バスで3時間30分程。
買ったばかりのリクルートスーツを着て、足早に会場を回る。
エステ、食品、経営コンサルティング、IT、アミューズメント、広告など・・・回れる限り企業を回った。
その時は、健康(運動)に関わる仕事に就きたい!と思っていたが、せっかくだから、何でも話を聞いてみようと思った。
何も持たない自分が、何かになろうと必死だった。
就職活動は本当に楽しかった。
数日に1度、高速バスに乗って東京に行く生活は、今思えば贅沢だった。
あの時の、悩み、不安、苦しみ、辛さも、今思えばその後を生きる糧となった。
あとになってからしかわからないことも、人生にはあるのだと思う。
ただ、水戸を離れようが、違う会社の説明会に行こうが、選考会が進んでいこうが、
相変わらず、ニキビはできているし、顔の赤みも残っている。
ある時、それをふと思い出し、思考が内へ内へと閉じていく。
結局何も変わっていない。
そして、何十社も会社説明会を聞いていく中で、最後は同じ思いに辿り着くようになった。
『魅力的な会社はおそらくたくさんある。だが、結局、入社してから俺が頑張らなきゃ何も始まりゃしない。全ては自分次第』
沈んでは立ち上がり、沈んでは立ち上がり、就職活動は慌ただしく進んでいった。
そんな時、ある程度資金に目途がつき、PDTを始めることにした。
当時は、水戸で治療を受けることができず、恵比寿まで行っていた。
『これで何とかなる』と思った。